姫路で瓦の文化を守る四代目表瓦社長のブログ

姫路生まれ育ったの瓦屋根工事店の四代目社長が住宅屋根のお悩みを解決します。

阪神・淡路大震災から29年です。

こんばんは。
姫路の瓦工事店、表瓦の表(おもて)です。
最近、朔矢が名前を呼ぶと手を挙げるようになりました。多分、まだ名前を呼ばれた事に対する返事という認識はなくて、手を挙げたら周りが楽しそうにしているから自分の名前に反応して手を挙げているだけやと思うんですが、それでも手を挙げて反応してくれるのが可愛いです。何回もやってしまうので朔矢の方が飽きて途中でしなくなります。

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29年前は高専の2年生でした。

 

29年前、地震が起きた時は私は高専の2年生でした。当時は成人の日が1月15日で固定で15日が日曜日やったので振替休日で翌16日も休みになっていて連休明け授業がある日でした。姫路でも震度4を観測していて、寝ている時に地震が起きたんですが最初は地震やって思っていなかったんです。それでも揺れが長く続いていてやっと地震やって気が付いた時には揺れは止まっていました。そのままもう一度寝ようかと思ったんですが、父に起こされて居間に行ってテレビのスイッチを入れたら神戸の方でかなり大きな被害が出ている事を報じていました。

 

朝イチは電車が動いていました。

 

当時はまだ今のように携帯電話やスマホが普及する前で自営業者や大きな会社の幹部などが自動車電話を持っている程度でした。そんな状況なので固定電話の回線が切れると通信手段はありません。授業があるのかどうかの確認が出来なかったのでとりあえず行ってみようと思って駅まで行ったら東行の電車は動いていたんです。
後で聞いた所によると西明石から先は行けなくなっていたらしいんですが、その時は知らずにそのまま電車に乗って学校に行ってみたんです。そしたら校門に「休校」と貼られていたのでそのまま家に帰る事にしました。

 

家に帰りついたのは15時くらいでした。

 

東行の電車は動いていても折り返しの電車はほとんど動いていない事を駅に着いてから聞きました。それでも帰宅するには電車を待つしかないのでひたすら電車を待って、乗ってみたら超満員です。被害の大きい阪神地区から姫路方面に避難する人が大量に乗っていたんです。それでもなんとか乗れたんですが、家に帰りついたのは15時を過ぎていたと思います。学校はその後1週間休みになってその間父の手伝いで屋根にブルーシートを掛けて回った事を覚えています。
関西には地震は来ないなんて言われてたけどそれが大きな間違いやったと気づかされた災害で、瓦業界が厳しくなるきっかけにもなった地震でした。あれから29年。未だに「家が倒壊したのは瓦(屋根)が重いから」と報じるマスコミに、相変わらずで成長しないなぁって思ってしまった2024年の幕開けでした。